自然音とスローテンポのインストルメンタル・ミュージック
心の散歩には、ぜひ、このCDを
監修/解説:富田 隆(駒沢女子大学教授 心理学者)
「完全欲」から自由になることにより、「ゆとり」が生まれます。
ところが、困ったことに、現代人はどうしても「完全欲」に執着するように条件付けられているのです。たとえばそれは、少しでも空き時間をみつけると、そこに仕事や約束を書き込んで、スケジュール表を真っ黒にしなければ気が済まない、というような「強迫観念」となって表れてきます。ポケベルや携帯が鳴らないと不安になる、などというのも、そうした精神的な反応の例です。一日24時間を無駄なく完璧に使いたい、あるいは、友人や知人からの情報を完璧に受信したい。こうした「完全欲」もわからないではありませんが、それがあまりにも強すぎると精神のバランスが崩れ、病気になってしまいます。これでは「ゆとり」も何もありません。
近代が始まってからこれまで、産業社会を支配してきたのは徹底的な合理主義でした。生産効率を上げるためにはたとえどんなにわずかな無駄であっても、それをはぶいてきたのです。効率を極限まで追求することにより、競争に勝ち、生き残る・・・。まあ、そうした努力を、一概に悪いとばかりに非難することはできませんが、一方で、人間に必要なちょっとした遊びやゆとりまでも無駄であると決め付け、切り捨てることで、世の中は随分と住みにくくなり、人々の心からうるおいが奪われてしまいました。このような、人間性を疎外する社会では、人々の心に必要以上の「完全欲」が植え付けられ、完璧に無駄のない理想的な?状態を目指して不断のチェックが繰り返されることになります。そんな環境で暮らしていれば、誰だってゆとりをなくしてしまいます。
しかし、自動車のハンドルにもいわゆる遊びがあるように、本当は機械にだってゆとりが必要なのです。まして、生き物である人間はなおさらです。最近では、従来型の効率至上主義が行き詰まり、もっと自然で人間的な考え方が主流となってきました。
そもそも、何が必要で何が無駄なのか?一見、簡単に思える問いも、実は奥が深く、人間の浅知恵ではなかなか正解を出すことはできないのです。ちょっと考えただけでは無駄のように思えることが、もっと深く研究してみると、実は重要なポイントになっていたりします。たとえば、子供にとっての遊びは、決して無駄なものなどではなく、遊びを通して子供たちは多くのことを学び成長していきます。こうした遊びの時間を無駄と決め付け、英才教育のプログラムで埋め尽くすことは、子供の自発的な成長のチャンスを奪い、人格をゆがめることにもなりかねません。
いくら完璧にやろうとしても、人間のやることには限界があります。ならば、もっとアバウトに、ゆとりを持って生きた方が楽しいではありませんか。完全欲の呪縛から開放された時に、私たちの精神は自由を取り戻し、この世界は輝きを取り戻すのです。そんな自由人の眼があれば、何気ない散歩で見つけた風景の中にも、素晴らしい宝物がみつかるはずです。そして、散歩のお供にはぜひ、このCDをお役立て下さい。